来迎院の歴史
沿革
当山の正式名称は、大用山来迎院英長寺といい、京都知恩院を本山とします。慶長十四年(1609年)に、徳川家康公が開基され、定蓮社正譽一実廓山上人が開山されました。
開山の廓山上人(元亀三年(1572)〜寛永二年(1625))の出自については二説あります。『檀林歴代記』によれば、今川義元家臣遠江日坂城主杉山治太夫の嫡子として生まれ、安部郡報土寺第五世念譽一道和尚を師としたとあります。又『増上寺縁山志・浄土本朝高僧伝』などによれば、武田信玄家臣高坂弾正昌信の二男として生まれ、十四歳にして甲府尊体寺で出家し、雲譽上人の門下で熱学したとあります。いずれにせよ、江戸芝増上寺十二世の存応上人(普光観智国師)に師事し、その弟子の中でも才覚と人望が特出されていたことに相違ありません。
家康公に認められた上人は駿府に伴われ、駿府城近くに寺院創建をご尊命され、公自ら、敷地を選定されたといいます。北街道に平行して、横内川が流れ、京都の高瀬川周辺に似ており、将来は船着き場としても繁栄する場所として見込まれました。現在の地に、約1,900坪(約6,300m²)の敷地を造成し、その後八間七間(約185m²)の本堂を中心に方丈、庫裡などが造設されました。慶長十五年(1610)には、公の命により法憧(仏教講座)が開催されました。
その折、金三百両および米三百俵が入用され、十二棟の学寮も建立されました。この法憧に、増上寺の存応上人は、修行僧百二十余名を参加させたといわれています。その後、公より、有度郡上足洗村内三十石の田を寺領として付与する内容の御朱印状を当山は賜りました。「南蛮屏風」寄進や揚梅のお手植えもこの頃の事であります。
開山の廓山上人は当山に在住の後、江戸伝通院の中興開山となります。そして元和八年(1622)に、二代将軍徳川秀忠公らの強い推挙により増上寺十三世になられ、徳川家の菩提を弔い、天下安泰に努められました。廓山上人の開山以来、幾多の変遷をへて、現在に至っている来迎院。その姿は、家康公が大御所として君臨されて以来の駿府静岡の歴史の証人といえるかもしれません。
概要
寺院 大用山来迎院英長寺
宗派 浄土宗
宗祖 法然上人
本尊 阿弥陀如来
創建 慶長14年(1609)
開基 徳川家康公
開山 廓山上人
教え
阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。
お経
歴代上人
開 山 正譽廊山上人
二 世 不明
三 世 単 譽上人
四 世 伝 譽上人
五 世 念譽一道上人
六 世 清譽連貞上人
七 世 常 譽上人
八 世 行 譽上人
九 世 誠 譽上人
十 世 諦 譽上人
十一世 眼譽達門上人
十二世 瑞 譽上人
十三世 不明
十四世 輭 譽上人
十五世 秀譽弁覚上人
十六世 台譽弁我上人
十七世 知譽善承上人
十八世 聖譽弁冏上人
十九世 運譽良厳上人
二十世 譲譽顕達上人
二十一世 融譽侚考上人
二十二世 法譽信広