境内案内
境内マップ
三門(山門)と院号額
当院の正門。ご参拝いただく方や隣接している横内幼稚園に通園する児童の皆さんもこの門をくぐります。
御本尊 阿弥陀如来像
創建期に作造されたといわれています。蓮華座に立する御仏の表情は、柔和な微笑みを浮かべています。
徳川家康公御手植の揚梅と庭園
増上寺史料の『浄土宗寺院由緒書』によれば、慶長十六年(1611)頃、家康公は、御小姓の石川弥兵衛に楊梅(やまもも)の苗木を持たせて、当山にお成り遊ばされました。その折に、公自ら苗木を植樹されたとあります。この楊梅をとりまいているのが、当山庭園であります。小堀遠州による築庭との言い伝えもある女性的な雰囲気が醸し出され、桃山時代から江戸時代初期の大名庭に比べれば、こぢんまりとまとまっており、その優美さはあまりにも可憐であります。その昔は、北東には霊峰富士、北西には赤石の山々が眺められ、大陸的で勇壮な景色が観賞できたに違いありません。現在も当山庭園は、四季折々、様々な様相を呈し、みる者の趣に潤いを与えています。
十三佛像
この十三佛像のいわれは次のようであります。奥州白石(宮城県白石市)の農民与太郎が、泥しぶきが原因となり志賀団七という武士に斬殺されました。与太郎の遺児のおみや(後の宮城野)、しのぶ(後の信夫)姉妹は、深い悲しみの中で、父の仇敵を討つべく修業のために江戸へ向かいました。やがて、牛込榎木町で軍学を伝授していた由井正雪を師と仰ぎつつ、武芸に、精神修養に励みました。正雪夫妻もまた姉妹の教育によく尽力しました。そして、寛永十七年(1640)、彼女らは正雪らの助力により、ついに団七を討ち、父の仇をとりました。
やがて慶安四年(1651)に正雪が幕府転覆を企てるも、未然に発覚し、駿府梅屋旅館にて自刃しました。その首級は安倍川原にさらされました。これを知った姉妹は駿府に赴き、師の首級を盗み出して葬り、刑場に近い弥勒の正念寺内に庵室を結びました。姉妹は、その庵に、十三体の仏像を安置し、父や正雪さらには団七も含めた十三人の菩提を弔ったといいます。さらに彼女らは、尼となり一生涯その身を供養に捧げました。なお宮城野・信夫姉妹は日本孝子伝にも列せられています。
正念寺は、はじめ安倍川千日寺といわれ、川原で処刑された囚人の供養寺でした。正保元年(1644)より来迎院の末寺となり、承応三年(1654)に、臨終山正念寺と改名されました。明治八年(1875)十月十一日に、無禄・無檀家のため廃寺となり、本寺である当山に十三佛像も移されました。大正七年(1918)に、十三佛堂が新築されました。
筆塚
使い古した筆を集めて地に埋め、その供養のために築いた塚。